(このページは日本で勤務または勉強するために来日された諸国の方々に、日本の歴史を知っていただくために書いた英文記事の和訳です。おおよその歴史上の出来事を知ることで日本の同僚や友人の会話も理解できるようになっていただくことを目的としていますので、詳細な記録としての歴史書ではありません。なにとぞご了承願います。)
日本の誕生
【約4万年前:旧石器時代】
アフリカから各地に広がった初期の人類の一群が約4万年前にこの土地にたどりつきました。 ゲノム解析のタイムマシンがその人数を教えてくれます— 約1,000人でした。 彼らが縄を押しつけた模様の土器を作った縄文人の祖先と考えられています。 (「縄」は手で編んだ縄、「文」は模様を意味します。)
【約4,400年~3,000年前:縄文時代(新石器時代)】
最初に到来した人々は食べ物を狩猟採集することで暮らしていましたが、異なる DNAを有する2番目のグループは漁業と農業の技術をもたらしました。 彼らは本土の中南部と九州に居住していた初期の移住者と融合しましたが、これは北に位置する北海道ではほとんど見られませんでした。 ゲノム解析の結果、現在に至るまでこの島に住むアイヌ人の中にはほぼ100%縄文人のDNAを持った人もいることが判明しました。 本土北部にも、祖先が大陸北部から伝わったアイヌ民族が住んでいました。 しかし、8世紀になると中央政府が彼らの領土に対する権力を拡大し、彼らを北海道に追いだしました。 三内丸山遺跡や吉野ヶ里歴史公園などの発掘現場では、当時の人々の暮らしを知ることができます。
【約3000年~1700年前:弥生時代】
以前の移住者に続いて、主に朝鮮半島を経由して大陸から次の移住者が稲作農業と製鉄技術をもたらしましたが、 しかし稲作と鉄製武器の生産の普及は、さまざまな紛争や戦争を引き起こしました。やがて戦争に疲弊した指導者たちは、争いを解決するために優れた巫女であった卑弥呼という女性の下に集まりました。 彼女は、異常な自然現象に対する神の預言を伝えることで、それらの指導者を落ち着かせることに成功しました。 しかし、西暦247年に彼女が亡くなると、これらの指導者間の権力闘争が再び激化し、最終的には生き残った少数の強力な領主による統治の次の段階に移ります。 弥生時代後期には、彼らの権力闘争の結果、北部九州と本土の畿内地域(奈良、京都、大阪およびその近隣地域)に二つの権力基盤が築かれました。
(弥生とは、この時代の土器が最初に発見された東京都心部の地区の名前です。)
【約1700年~1300年前:古墳時代】
有力な権力者諸侯は大陸(朝鮮・中国)との交流によってもたらされた高度な工芸や文化によってさらに勢力を確立していきます。 畿内豪族は次第に北方地方を含む各地に勢力を拡大し、九州の豪族までもその支配下におくようになり、一人の偉大な指導者(後に天皇と呼ばれる)の下に統合された政府は後に天皇がヤマトと名付けたこの国を統治することになります。 その後、権力者たちは自らの権力の象徴として大きな墳墓(古墳)を造るようになり、やがてそれが全国の権力者にも広まっていきます。 権威が強固になったことで政権指導部は大胆にも朝鮮内戦に関与することになり、西暦369年には軍を派遣します。 これはほぼ2世紀続きました。 大陸との密接な関係を示すもう一つの注目すべき出来事は、6世紀半ばの朝鮮を通じた仏教の伝播でした。
貴族階級の確立
【西暦592年~710年: 飛鳥時代】
この時代には次のようないくつかの革命的な出来事が起こりました。
*仏教伝来: 現在もそうであるが、天皇が立脚する国教は日本固有の多神教である神道であったため、仏教の公認をめぐる論争は宮廷の権力闘争に発展した。
*初代推古天皇が西暦592年に即位した。
*聖徳太子が貴族や官吏を統治するための行動規範として十七条の憲法を制定した。
*大化の改新における種々の統廃合政策により、全国的な統治機構が確立された。 西暦645年に始まった改革により、国名は「日本」と定められ、国の最高指導者の正式な称号は男性であれ女性であれ「天皇」と定められた。
*西暦689年から、刑法と行政法の法体系が順次確立された。
*銀生産用の灰吹炉を建設。
【西暦710年~794年:奈良時代】
元明天皇(女帝)は藤原京(奈良県橿原市と明日香村にかかる地域)から都を移し(現在の奈良市)、平城京と改名した。 政府は統治地域に国家の平和と安全を祈願する寺院を多数建立する一方、反抗的な北部地域と南部地域への力による統治を強化した。 それは、天皇の権威を拡大し、多くの寺院の建立や遷都で疲弊した経済を立て直すために課税対象地域を増やすためであった。
日本最古の歴史書『古事記』と『日本書紀』が完成。 後者は、天皇の家系図とその正当性を遡及するためのものでした。
[西暦 794年 – 1185年: 平安時代 – 長く続いた宮廷政治、そして – ]
桓武天皇は 794 年に平安京(京都)に遷都した。(その後、討幕派が徳川幕府を倒し、明治天皇が新たな統治の中心地である東京に移る1868 年まで天皇の統治中心地の移転はありませんでした。)以後、ほぼ390年間、全国的な戦闘がなく天皇と貴族による統治が続きました。 そうとは言え、天皇家や上流階級の権力闘争は続き、その争いや内紛は次第に国家運営や税制の制度疲労を招いていきます。 社会不安が続く中、しだいに各地の豪族や富裕層が武装し、やがて貴族の権力闘争に影響を与えるようになっていきます。
このような長い貴族統治の中で人々はしだいに教養を身につけていくようになり、詩や物語を書く能力が高く評価されるようになりました。 こうして紫式部により『源氏物語』が書かれることになります。
幕政時代への序章
―衰退する貴族と台頭する新興勢力―
【平氏政権 (1167年 — 1185年)】
1156年、天皇家一族内の争いが各派を守る武家同士の戦いになり(保元の乱)、さらに1159年にいたって雌雄を決する決定的な戦いが行われた(平治の乱)。 この戦いにおいて平氏軍を率いる平清盛が敵対する派の源氏の軍勢を壊滅させ、これにより平清盛は支配的な権力を獲得し、やがて1167年に最終的に太政大臣に昇進する。清盛はこの最高の位についた最初の武士であり、これは権力が宮廷政治から武士による統治に移行した歴史的なできごとであった。
しかし清盛の権力欲はそこで止まらず、その立場を利用して1171 年に娘の徳子と高倉天皇の結婚を取り決めた。当然のことながら高位の地位のほとんどは清盛の忠実な部下によって占められることになる。
【源頼朝、13歳、平治の乱により地方へ追放—西暦1160年】
平治の乱では源氏の有力武士のほとんどが戦死し、侍大将の息子であった13歳の源頼朝も死刑を言い渡された。しかし、平清盛の継母である池禅尼の嘆願により九死に一生を得て、伊豆半島への流刑に軽減されることになった。(この裁きが後に清盛の致命的な誤りであったとわかる。)
伊豆地方は地元の有力者である北条時政の支配のもとにあり、当初はその北条家が頼朝の監視役を務めていたであろう。しかし、追放された身とは言え頼朝は、おそらく彼の高貴な血筋ゆえに(源氏の家系は清和天皇の子孫にあたる)敬意を持って扱われていたようである。とは言え、平家が勢力をきわめて行く中、頼朝は約20年間伊豆の地において目立った活動を控えて過ごしている。
しかし、やがて頼朝が北条時政の長女・政子と結婚したことにより、歴史は新たな扉を開くことになる。その時までに、平清盛とその一族の横暴かつ恣意的な統治は、抑圧されている宮廷人や多くの地方指導者たちの間に強い不満と憤りを引き起こしていた。 皮肉なことに、反清盛の動きは清盛に冷遇されて不満を抱いていた平家の一族さえも引き寄せていたのである。そして今や見えない嵐が湧きおころうとしていた。
*潮目が変わり始めた
–以仁王(もちひとおう)の逆襲 --
治承4年(1180年)4月9日、後白河上皇の皇子以仁王はついに平家の専横に耐え切れず、源氏一族の末裔と反平家の地方支配者たちに平清盛とその一族を追討せよとの令旨(指令)を発した。清盛は以仁王の正式な皇子称号の承認を長い間遅らせ保留していたが、それは1180年に孫の天皇即位(安徳天皇)を取りはからうためであった。清盛の高圧的な行動は後白河上皇との関係さえも悪化させることになる。前年、清盛は上皇の命令を無視したのみならず一時的に監禁し、更にその側近40人を解雇したのである。以仁王も無傷ではいられない。彼は権力の源である領土の一部を奪われてしまった。
以仁王の令旨は頼朝にももたらされた。頼朝は伊豆の僻地に閉ざされながらも、清和天皇の血を引く源氏の嫡流として、また伊豆の領主北条時政の娘婿として、次第に力を増していた。そしてついにその時が来た。が、しかし頼朝の予感が彼に何かを告げ、そのまま以仁王の立ち上がりの動きを見守ることにした。
物事はいつも計画通りに進むわけではない。以仁王にとって誠に不幸なことに、反平家勢力を十分に動員する前にその蜂起計画が平家に漏れてしまった。清盛は波紋が大波になる前に以仁王とその支持者を一掃するべく直ちに行動を起こした。最終的に宇治川で激戦が繰り広げられ、以仁王は清盛を倒すことなく報われぬ生涯を閉じることとなった。
平家の一族は安堵のため息をついた――しばしの間。 しかし、以仁王の決起の叫びは燎原の火のように広がり、源義仲(木曽義仲として知られる)、甲斐源氏、近江源氏、源頼朝など、抑圧されてきた地方の有力豪族たちの反乱の導火線に火がつく結果となった。頼朝もただ成り行きを見守っている状況ではなくなった。頼朝は、緊張が高まるにつれ反抗的な氏族や従順ではない氏族も打ち砕き始めた平家軍による攻撃の可能性に直面することとなったが、しかし清盛にとって由々しいことには、この動乱は各地で反平家蜂起の連鎖を招く結果となり、突然国中が沸騰し始めたのである。
【頼朝、鬨の声をあげる】
最初の攻撃目標は朝廷の伊豆国目代(代官:実質的には平家支配)であった。 治承4年(1180年)8月17日頼朝はその目代を討ち果たし、ここから平家との長く険しい戦いの日々が始まる。 しかし、次の戦いはさらに厳しく危ういものであった。共に戦うことを期待された有力豪族の幾つかがまだ様子見をきめている状況の中、頼朝は富士山麓に広がる次の平家系列の領地に果敢に攻め入った。
その日は1180年8月23日――最初の戦いから7日後のことだった。 頼朝は伊豆半島の付け根にある石橋山で平家の軍勢と対峙していた。 しかし、残念なことに、この戦いは計画どおりには展開しなかった。 頼朝の同盟軍が戦場に向かっていたが、着陣する前に増水した酒匂川に阻まれたため、頼朝は300人の軍勢で3,000人の敵軍と対峙することになった。頼朝軍にとってそれは絶望的な戦いで壊滅状態となり、頼朝は死を覚悟した。
その時、奇跡が起こった! おそらく平家軍にやむをえず加わったのであろう一族の長が、頼朝に深い山に続く隠れ道を示したのであった。それから頼朝と数名の武士達は数日間山中を移動し逃避を続けることになる。ある日、彼らが洞窟に潜んでいると、ある平家側捜索隊の長(藤原景時)が彼らを見つけにやって来た。 もはやこれまで! 頼朝は自刃しようと刀を抜いた。すると、その男は洞窟から出て行き、「ここには誰もいない、隣の山に探しに行け」と叫んだのです。(後日、頼朝が生き延びて軍を立て直し鎌倉に本拠を置くと、その景時を幕府の要人として招聘し平家追討軍の指揮官の一人に任用することになる。)
かろうじて生き延びた頼朝は、真鶴半島の小さな港にたどり着き、船で大きな湾(現在の東京湾)の対岸である安房国の安全な場所に避難した。 8月29日に上陸した頼朝は、早速地元の有力豪族を再び糾合し始める。当初様子見をしていた者たちを含め次々と豪族達が頼朝に合流し始め、 9月末までに関東地方(現在の千葉県、東京都、埼玉県、神奈川県)のほとんどの者が頼朝陣営に加わるに至った。 10月6日、頼朝は2万5千の軍勢を率いて、かつて父と兄が有力氏族として権力を握っていた鎌倉に到着し、この時をもって鎌倉時代の幕府統治の基盤ができあがった。
【富士川の戦い】
頼朝の蜂起は直ちに朝廷の大臣であり平家当主である平清盛に報告され、清盛は即刻追討軍の派遣を命じた。しかし今や平家は各地で蜂起する新たな挑戦者たちに直面していた。敵は頼朝だけではなかったのである。 以仁王の令旨は他の源氏一族の生き残り、特に武田信義率いる甲斐源氏(甲斐:富士山の西側に位置する現在の山梨県)と木曽地域(現在の長野県)を支配していた源義仲(通称:木曽義仲)の平家に対する敵対感情に火をつけた。(義仲は後に平家一門を京から追い出すが、その後の京都における数々の乱行が公家の怒りを買い、最終的には朝廷の義仲追討令を得た頼朝により滅ぼされた。)
頼朝および甲斐源治追討のため平家の軍勢が東進し、富士山の麓を流れる富士川に到着すると、川の向こう側に頼朝・甲斐源氏連合の大軍が展開していた。 平家も戦場に到着するまでに各地で系列豪族の兵士を徴集し、一時は約7万人の兵力となっていた。とはいえ、急遽動員されたこれらの軍勢は、必ずしも戦闘目的が明確とは言えないさまざまな氏族の寄せ集めであったため、多くの氏族が途中で離散し、川に到着した時には軍隊は数千人に減っていたという。対岸に源氏軍の大波が見えると、更に平家軍勢の一部が引き返し始めた。 その夜、平家軍は戦わずして突然撤退したと言う。 甲斐源氏の軍勢が夜襲のため静かに川を渡っていると、一群の水鳥が羽をばたつかせて飛び立ったことから、これを源氏軍の突然の襲撃と受け止め、愕然とした平家軍は大混乱に陥り、武器を捨てて逃走したという逸話が残っている。
【頼朝と義経 兄弟の再会】
平家の軍勢を撃退することに成功した両源氏は、それぞれ近隣の非同調的な氏族を一掃して権力をさらに強化するためにそれぞれの本拠地に戻った。その帰途、頼朝には若い訪問者がいた。それは異母弟の源義経であり、彼もまた国北部の広大な地域を支配する藤原氏の平泉に逃れて若い頃を過ごしていた。この弟はやがて頼朝の先鋒となって平家一門を滅ぼすことになるが、挙句の果てにはその自信過剰から平泉を巻き込んで自滅することになる(別章、平泉の藤原一族滅亡へと続く)。
【1181 年 2 月 4 日】
ついにその日が来た――平家滅亡の幕開け。その時、誰も抗えなかった殿上人の平清盛は、高熱にうなりながら、紅蓮の炎のように渦巻く熱気の中でついにその生涯を閉じた――平家と源氏の相克を綴る物語が平清盛の最後を鮮明に語っている。 無敵であった平家の支配力が、迫り来る嵐に直面していた。
源 義仲 (通称「木曽義仲」)、大将軍の地位を逸して散る
以仁王の令旨は、もう一人の名門の子孫である源義仲(木曽義仲)をも動かした。義仲は源頼朝の従兄弟であったが、彼らの関係は実は団結しているというよりは冷たく隔絶したものであった。権力闘争は家族でさえ引き裂くことがあるが、木曽義仲の父は、平清盛(平家)によって源氏一族が滅ぼされる以前に、兄である義朝(頼朝の父)に殺されていたのである。義仲と頼朝の間に仲介役があったとすれば、それは悪魔か、あるいは平清盛に対する戦いぐらいしか無かった。
木曽山中で雌伏20年余、義仲についに家名を回復する絶好の機会が到来した。以仁王の戦場での死も義仲を引き留めることはなく、野望に燃える彼は、木曽地方の反平家一族を糾合して、平家に連なる氏族の潰しにかかった。これに激怒した平清盛は、越後地方(現在の新潟県)の支配者で平家に属する城 長茂(じょう ながもち)に、義仲とその同盟軍を叩くよう命じた。そして1181年6月、長茂は1万人の兵力を率いて越後から下ってきた。しかし相対する義仲の軍勢はわずか3000人に過ぎず、義仲の陣営の兵士以外、誰も彼が勝利することに賭けるものはいなかった。
しかし、奇跡が起こった。義仲が彼らを叩きつぶしたのである。 どうしてそれが可能であったか? 赤い平家の旗を掲げた一部隊が川沿いに下ってきて、城 長茂の軍勢に合流しようとした。まさにその刹那、その部隊の兵士達は突然平家の旗を投げ捨てて、長茂の軍勢に突撃を開始した。この突然予期せぬ事態に大混乱が起こり、その刹那、義仲の軍勢が川を渡って混乱する長茂の軍勢を攻撃し壊滅させてしまった。巧妙な戦術が形勢を逆転させたのである。
この勝利は義仲に大きな力をもたらした。越後を占領するだけでなく、海岸沿いに貨物を運ぶ主要な動脈である北陸道(平家の貨物も含む)も支配するようになったのである。翌1182年、義仲は故以仁王の長男である北陸宮を受け入れ庇護した。これで彼は正規の旗印を得て平家一族と戦うことができるようになったのである。その領土に対する南部(太平洋側)で強大な勢力として台頭していた源頼朝と同様に、木曽義仲も平家の支配にとってもう一つの脅威となったのである。1183年4月、平家は10万人の兵力を動員して義仲に対して大規模な攻撃を開始した。一方、義仲の軍勢はわずか3万人に過ぎず、平家の軍勢は一方的に諸々の場所で義仲の抵抗線を突破し前進を続けた。しかし、義仲は辛くも反撃し、奇襲攻撃で平家の軍勢を倶利伽羅峠という山地に押し戻すことに成功した。山で育ち、荒れ地で戦う方法を学んだ義仲にとって、この平家の軍勢の展開は絶好のチャンスとなった。そこで彼は再び形勢を逆転させることに成功したが、今度は夜襲であった。暗闇の中で平家の軍勢は混乱し、崖から落ちたり戦場から逃げ出したりし、同軍の全面攻撃は惨敗に終わってしまった。
義仲は今や誰も止められない勝者となり、都へと進軍し始めた。義仲や他の源氏の迫りくる攻撃に直面して、今や平家は都を捨てて西国へと落ち延びるほかなす術はなくなってしまった。彼らは権威の正統性を主張するために、安徳天皇を連れ出した。しかし、平家の手から辛くも逃れた後鳥羽上皇が都で政治の指揮を執り、直ちに平家の勢力圏を押し返した源氏の指導者たちを称える政を行った。第一位は源頼朝であり、次いで源義仲(木曽義仲)も高く評価された。そして、上皇は都の混乱を鎮めるために、義仲を都の治安を司る組織のトップに任命した。がしかし、その効果があったかというと、残念ながらそうではなくむしろ逆効果だった。義仲の軍団は寄せ集めであり、倶利伽羅峠の戦いの後に義仲に追随した一族も少なからずいた。実際、その不規律な兵士たちは都で食料や馬の飼料を略奪したが、義仲はそれを止めなかったどころか、むしろその行為をかばったのである。
こうして、上皇は思いもよらぬ義仲の荒々しく暴力的な性格に困り果て、彼を権力の中心から排除し始めた。それに対して、義仲は武力で朝廷を支配下に置き、なんと上皇をある高官の邸宅に幽閉するにいたり、彼は征東大将軍の称号を獲得し、亡き以仁王の子である北陸宮の皇位継承を要求した。しかし、その頃にはすでに源頼朝の弟で戦に優れた源義経が都に近づいており、激怒していた上皇は頼朝に木曽義仲を追放するよう命じた。その瞬間、義仲の運命は決まってしまった。その頃には既に義仲に失望した者が続々と離反しており、彼の二ヶ月間の支配(そして命)は最終的に宇治川の戦いで義経の手により断たれることとなった。
幕府政権の確立に向けて
–「壇ノ浦」の戦い–
木曽義仲とその軍勢を滅ぼした後、義経と範頼(両者とも頼朝の弟)は時をおかずに平家に挑みかかり、その軍勢をさらに西へと追いやった。
そして1184年8月、いよいよ平家滅亡への秒読みが始まった。範頼を総大将とする頼朝の軍団が平家に対する総攻撃を開始すべく鎌倉を出発したのである。彼らはまず、海峡を挟んで南西に位置する九州に上陸しようとした。そこから平家の背後を攻撃し、併せてその退路を断とうとしたのである。しかし、範頼の進撃は平家の水軍によって阻まれた。この膠着状態に憤激した義経は、鎌倉の最高権力者である源頼朝の代理として京都に駐留していたにもかかわらず、後白河上皇(「頼朝ではなく」)に、京の都を出て源氏の軍勢に合流することを願い出た。義経の目標は、隣接する島である四国の北部にあって京都から約200km離れた平家の仮本拠地・屋島であった。
1185年1月19日、義経はその屋島を襲撃し、平家の軍勢を島々が点在する瀬戸内海へと追いやった。幾つかの島に逃れた平家一門とその水軍は、最後に本土の最西端である彦島にたどり着いた。その頃には、範頼も九州に到着して平家の背後から攻撃を仕掛け、やがて戦場は海上に移った。平家は500隻の舟、源氏は同盟軍の舟840隻を動員した(鎌倉幕府の記録『吾妻鏡』による)。1185年4月25日(旧暦では3月24日)、彦島から約10km離れた壇ノ浦の海峡でついに最後の決戦が始まった。
戦闘は平家の激しい弓の一斉射撃で始まり、源氏の軍勢を守勢に追い込んだ。しかしながら、平家にとって残念なことに、この攻撃は装備不足のために長くは続かなかった。源氏の軍勢は舟や陸からの反撃で平家の軍勢を少しずつ押し戻し、それに続いて舟同士の白兵戦が始まった。時間が経つにつれて平家は兵力を失い、一部の者は源氏に降伏し始めた。そして数時間後、ついに戦闘は終わりを迎えることとなる。平清盛一族の高位にあった女御が幼帝・安徳とともに入水したのである。そしてその他多くの高位人物も海での名誉ある死を選んだ。
驕れる者久しからず
京都に戻った義経は上皇から高い官位を授けられた。しかし、これは兄の頼朝の怒りを招いてしまうものであった。なぜなら、頼朝は事前に自分の承諾なしに朝廷からの恩賞を受けてはならないと源氏一族に命じていたからである。さらに、他の武将たちから、義経の戦場での独断専行に対する不満が頼朝に報告されていた。
そのような次第で、義経が捕縛した平家一門の者達を源氏の都鎌倉に連れて行ったとき、彼は鎌倉に入ることを許されなかった。彼は頼朝に謝罪の手紙を送ったが、それは無駄であった。木曾義仲や平家一族に圧倒的な勝利を収めたにもかかわらず、彼は排斥されてしまったのである。この兄弟の関係は日に日に悪化し、窮地に陥った義経はついに頼朝に対抗することを決意した。彼は何らかの手段により、権謀術数に長けた後白河上皇の支持を得た。上皇は多分、源氏一族で不満を抱く者達を動員しようとする義経の力を過大評価したのであろう。しかし、残念ながら義経の呼び掛けに応ずる一族はほとんどいなかった。上皇は頼朝の激しい怒りに直面してひるみ、なんと義経を追討する命令を発したのである。そして頼朝はただちに義経の追討を始めた。
義経の運命やいかに?
奥州藤原氏の崩壊
–頼朝の厳しい義経追討–
都近辺に安全な隠れ家のなかった義経は、日本北部の奥州藤原領の都である平泉に逃れた。藤原氏は金生産の力によって本土の約三分の一に及ぶ地域を支配しており、この輝く金属によって藤原氏は北の王国を築き、また皇室との安定した関係を100年近く維持してきた。そして源氏と平家の闘い(平治の乱)においては、この一族は慎重にその争いから距離を置いていた。
<平泉は、当時京都に次ぐ第二の大都市で、中尊寺の金色堂を含む多数の大きな伽藍があった。>
平家が平治の乱で源氏一族を打ち破った後、平清盛は幼名「牛若丸」の若き義経と兄である頼朝の命を奪わず、その後義経は平泉に逃れることとなった。そして今、藤原秀衡は再び義経を受け入れた。これは、頼朝が藤原氏に圧力をかけるための口実となったが、しかし秀衡は動じず、むしろ頼朝との間にまもなく起こるであろう対決に備えたのである。
しかしながら不運なことに秀衡は病床に伏せていた。死の間際にあって、彼は息子の泰衡と戦さに優れた義経に、頼朝の軍勢を撃退するために強く団結するように求め、二人はその旨の誓約書に署名を行った。その後、秀衡が亡くなり、頼朝が義経の引き渡しを要求してきたが泰衡は最初これを拒否した。
そこで頼朝は、上皇に義経逮捕の命令を出すように要求し平泉に対する圧力を強めた。度重なる激しい要求は藤原家を揺さぶり、やがて泰衡は混乱に耐えられなくなり、義経を頼朝に引き渡すことに決めた。義経の屋敷が泰衡の兵士に囲まれるに至り、義経は自らの手で波乱に満ちた人生に終止符を打つこととなった。そして歴史の歯車が再びカチリと音を立てた。
泰衡の父が予見したとおり、頼朝は上皇の和睦の勧めにもかかわらず義経の死で手を引くことはなかった。頼朝にとって、藤原氏は扉の向こうで眠れる獅子であり、将軍として全国を統治する前に排除しなければならないものだったのである。頼朝は泰衡が義経を自害に追い込んだと非難し、それを口実に100年の歴史を誇る藤原氏の王国に侵攻した。頼朝は最終的に約27万人に達する兵士を全国から動員し、1189年7月に三つのルートに分かれて藤原氏の領土に進軍を開始した。彼らは一ヶ月で藤原氏の砦を次々と陥落させ、1189年8月22日ついに平泉を制圧した。泰衡は奥地へと脱出したが、しかしこともあろうに逃亡途中で部下に裏切られて殺されてしまう結果となった。こうして歴史ある名門の藤原王国は1189年9月3日に崩壊してしまった。
鎌倉時代(1180年代 – 1333年)
–前代未聞の蒙古襲来と天皇家2系統の対立という嵐の日々–
1192年、源頼朝は全国の惣領・豪族を指揮する征夷大将軍となり、併せて宮廷で最高位の大臣に相当する地位を獲得した。頼朝が鎌倉を本拠地としたため、天皇の京都から約400km離れたこの地が権力の中心となった。これ以降、国を支配する大将軍は何度も変わったが、天皇と大将軍各々がそれぞれ人事を行うという二重構造がその後約700年間続くこととなった。またこれ以降すべての武士にとって頼朝の名は武士政権の創始者として神格化された存在となる。
1199年、その頼朝が突然落命するという事態が生じ、時代の力のバランスが再びカチリと音をたてて動いた— 伝えられるところでは落馬が原因という — そして、頼朝の嫡男である源頼家(18歳)が、北条時政(頼朝の妻政子の父)を中心とした13人の武士団惣領の支持を受けて、父の地位を直ちに継承した。しかし、間もなくそれらの重臣たちの間で権力闘争が勃発し、時政は次々と自分に逆らう者を駆逐していった。
1203年、その頼家が原因不明の病に苦しんだ上に時政によって修善寺の屋敷に幽閉され、翌年には死亡(暗殺)してしまう。時政は頼家の弟である実朝を後継者に据えて、ここに兄弟をそれぞれ支持した二派の権力争いが終結し、北条家の執権としての全盛期が始まった。
しかし、彼らにとって不安定な状況はそこで終わらなかった。1219年、将軍源実朝が暗殺され、源頼朝の直系は終焉を迎えた。北条家が主導する鎌倉幕府は、頼朝の血筋から遠く離れた家系の未だ子供である藤原頼経を将軍の後継者として迎え入れ、かつて平清盛が天皇家を支配したように、北条家も将軍を操るようになった。さらに言えば、第56代天皇であった清和天皇の血を引く源氏の直系がここで断絶したことを意味する。鎌倉の支配者の中には、もはや天皇家の高貴な血筋を継ぐ者は存在しなくなったのである。
後鳥羽上皇はこの混乱を天与の機会と捉え、鎌倉幕府や執権北条義時(得宗(とくそう/とくしゅう)と呼ばれた北条家の惣領)の打倒を狙っていた。
承久の乱:決定的に崩れた力の均衡
1221年(5月14日)、後鳥羽上皇は鎌倉幕府の力を削ぐため、北条義時およびその一族を抹殺せよとの勅命を発した。この指令は鎌倉の支配階級である武士たちにも混乱をもたらすものであった。嵐の暗い夜、船乗りは航路を示す灯台を必要とするが、誰がこの突然の嵐の中で航路を示し得たか。それは他ならぬ北条政子—鎌倉幕府初代将軍源頼朝の妻—であった。政子は彼らに、その立身出世をもたらした頼朝の指導と恩顧を忘れてはならぬと厳しく伝え、後鳥羽上皇の指令と軍を押し戻すよう指示した。
鎌倉の動きは電光石火のごとく素早かった。5月22日には早くも最初の部隊が上皇の拠点である京都の攻撃に向かい、続いて3日間で約19万人の戦闘集団を動員したのである。勅命の力と効果を過大評価していた上皇とその従者たちは、これを知りパニックに陥ってしまった。上皇が西方地域の皇室派勢力に動員命令をかけたときには(東側は鎌倉の支配下にあった)、鎌倉軍はすでにいくつかの上皇軍の防衛線を突破し、京都に突入していた。そして6月15日、上皇は鎌倉軍により拘禁されることとなった。
この時点で、天皇と大将軍の間の力のバランスは崩れ、挙句の果てに後鳥羽上皇は翌月隠岐の島に配流され、他の何人かの皇族も遠隔地に追放されてしまった。その後鎌倉幕府はただちに京都の南北に六波羅(後に六波羅探題と呼称)という監視機関を設置して天皇および他の皇族の動きを監視することとなった。これ以降鎌倉幕府(または北条家)は皇室の皇位継承さえ監督することになった。この一方的な力関係は、1867年に徳川幕府が崩壊し、日本が近代社会へと変貌を遂げるまで約650年間続くこととなった。
元 寇
1221 年の承久の乱の後、鎌倉幕府 (北条家) は着実に国全体の統制を固めていた。しかし、その頃には地平線上に不吉な雲が立ち込めつつあった。モンゴル帝国の恐るべき皇帝、クビライ・カァンは、朝鮮半島から 200 km ほど離れた島国、日本に目を向けていたのである。
よくあるように、それは貢物の要求から始まった。
1266年: 最初の試み: クビライ・カァンは使節団を日本に派遣することを決定し、朝貢国である高麗王朝 (現在の韓国) の王に帯同者を同行させるよう命じた。しかし命令に服するのを嫌った高麗人たちが使節団に荒れ狂う海を見せたことから、それが功を奏し、使節団は何も得ることなく帰国した。これに激怒したカァンは高麗王に、代わりに自らの部下を日本に派遣するよう命じた。
1268年: 2度目: 高麗の使者がクビライの要求を携えて九州 (日本西部の大きな島) の地方首都である大宰府に到着し、その要求は、外交を統括していた京都の天皇に転送された。慌てたのか、戦術的な考えからか、朝廷は使節団を大宰府で 7ヵ月間待たせた後、最終的に正式な回答を持たせないまま帰国させてしまった。ことの成り行きにいらだっていたクビライ・カァンはその時までに高麗に軍船1,000隻の建造を命じていた。
1269年(2月):3度目:クビライ・カァンは70名を超える使節団を日本に派遣した。彼らが日本と朝鮮の間にある対馬に上陸したとき、現地の領主は彼らの先遣を拒否したので争いが起こり、使節団は2人の島民を人質に捕らえて戻って行った。
1269年(9月):4度目:クビライ・カァンは人質を送り返すという名目で大宰府に別の使節団を派遣した。しかし、以前と同じように、鎌倉幕府の申し入れにより朝廷は恭順の要求を無視した。
1271年:クビライ・カァンは中国の元王朝を建国し、現在の北京に首都を建設した。
(9月):5度目:クビライ・カァン率いる元王朝は、日本への海路に面した朝鮮の都市に軍隊を配備し、100人近い代表団を大宰府に派遣し、日本が元王朝に恭順するよう要求した。それはまさに最後通牒だった。彼らは11月までに即時回答をするよう要求した。ことの危うさを恐れた大宰府は独自の使節団を派遣することを決定したが、それは侵略の可能性に関する情報収集のためでもあった。
1272年1月、大宰府の代表団はクビライ・カァンにとりあえず敬意を表すために元に到着した。彼らはそこで何が起こっているかを見聞きし、その後4月に大宰府に戻った。
(クビライ・カァンの要求をくい止めている間に、鎌倉幕府は予想される侵攻を撃退するため大宰府周辺に兵力を増強し、九州および日本本土の武士たちに迎撃態勢をとらせた。)
1272年: 最後の試み: 元の使節船が日本に返答を要求するために現れて、大宰府は再び緊張状態に陥った。朝廷は今回ただちに反応したが、クビライ・カァンに抵抗する南宋の反モンゴル派の秘密工もあり、返答は使節の手に届かなかった。
クビライ元の侵攻のカウントダウン
1273年:クビライ・カァンは5年間の戦いの末、宿敵である中国南宋王朝をほぼ壊滅させ、日本への本格的な攻撃を仕掛けることが可能となった。
1274年(1月):クビライは高麗王朝の王に300隻の戦艦を建造するよう指令をだした。
(6月):戦艦が完成し、700隻を超える艦隊(他の記録では900隻)の出航準備が整った。召集された高麗王朝の兵士と水夫の数は27,000人以上であった(一部の文書では40,000人と言われている)。
文永の役
1274年(10月5日) 元と高麗の連合軍はまず対馬を襲撃して領主と家臣団を殺害し、数百人の島民と子供を捕らえて、後に多くの女性を人間の盾として軍船の壁に縛り付けた。
(10月14日) 次に九州から約30キロ離れた壱岐島を攻撃し、ここでも守備兵と島民の併せて数千人を虐殺し、その後九州西岸沖にある他の島々に襲い掛かった。
(これらの残虐な攻撃は直ちに大宰府、京都にいる天皇及び鎌倉の幕府に報告された。元の襲撃の報に愕然とした九州の領主達はただちに海岸地域と大宰府に武士団を派遣した。鎌倉幕府もまた、西国の領主に武士を九州に急行させるよう命じた。)
(10月20日)総力戦開始 元軍と高麗軍は博多湾(大宰府への道)を襲撃し、数キロ内陸に進撃して陣地を構えた。一方大宰府軍は湾の反対側に主力部隊を配置していた。突然、予想外の方向から武士団の鬨の声が轟いた。赤坂あたりに布陣していた侵略軍は突然襲い掛かった肥後藩の予期せぬ猛攻に狼狽し、同藩と主力部隊の共同攻撃を受けてすぐに上陸地点まで押し戻された。
元軍と高麗軍は一度混乱に陥ったがすぐに部隊を立て直し、多数の地元民を捕虜にしながら大宰府に進撃を開始した。一方、大宰府軍は最初の戦線から撤退し、大宰府を守るために内陸約10kmの地点に新たな防衛線を構築した。
夜明け
戦闘二日目の夜が明けた。が、何だ? 元・高麗軍が消えた――文字通り煙のように消えた! 鬨の声も聞こえず、野原が静かに広がっている。 もしや目標を変えたか? 突撃の準備を整えていた武士団は面食らった。「何が起こったのか?」
(高麗軍の記録によると、侵略軍は兵士の死傷者が予想以上に多かったことに気づいた。 日本側が次々と戦闘部隊と武器を結集している間、侵略軍はすぐにはそれらを補充することはできなかった。)
形勢は突然逆転した。 侵略軍は大宰府にたどり着くのが困難であることを悟り、日本軍が反撃を開始する前に撤退することを決めたのである。 侵略軍は夜が明ける前に急遽暗い海に殺到し、船は混乱の中で互いに衝突し、あるいは岩場に激突し、10月後半の嵐の海は木造船を深海に沈めてしまった。 かくして11月27日に朝鮮の湾に戻るまでに、彼らは13,000人以上の戦闘員(兵士と水夫)を失ってしまった。これは戦闘要員の3分の1以上の人数である。高麗王朝はこの戦争で人員、食料、木材など膨大な資源を失った。
(猛り狂うクビライ・カァン)
1275年(2月): クビライ・カァンは元朝への服従を要求する7度目の使節団を日本に派遣した。しかし、彼らの本当の使命は日本を詳細に調査することであった。彼らは鎌倉に向かう途中で殺されたが、多分にそれが理由であった可能性が高い。
(1276年: クビライ・カァンは中国大陸における最後のライバルである南宋を征服し、再び日本を攻撃する準備を始めた。)
1279年(6月): 8度目の使節団: クビライ・カァンは日本の服従を要求する最後の使節団を派遣した。彼は今回、征服した南宋から使節団のメンバーを選んだが、しかし鎌倉政府は動じず、何名かの技術者と識者達を除いて使節団を以前回同様に処刑してしまった。
弘安の役 — 危機再び
1281年:再び日本に暗雲が広がってきた。
クビライ・カァン率いる中国の元朝が、モンゴル、高麗(朝鮮)、南宋から動員した14万人以上の軍勢(水夫を含む)をもって、日本に2度目の攻撃を仕掛けてきたのである。約4,400隻の船が準備され、それらは東方の航路と南方の航路の2つのルートから九州に向かった。
(5月3日):東路軍は、まず九州へのルート上にある対馬と壱岐の島々を攻撃し、その後大宰府を襲撃すべく博多湾に押し寄せてきた。彼らは日本が次の攻撃に対する備えを固めていたことを軽視していた。なんと、海岸線に沿って20km以上にわたって築かれた、高さ2~3mの長い石積みの防壁(先の戦さの後、鎌倉幕府が急遽築いたもの)にはばまれてしまったのである。しかも、その防壁を背にして、上陸してきた敵軍に突撃してくる勇猛果敢な武士たちもいた。
(6月6日): 武士団の猛烈な反撃に直面した侵略軍は撤退して陸地と細い道でつながっている志賀島に向かい、そこを占領して一時的な拠点を築いた。
(6月8日): 武士団は海路と志賀島への陸路の両面から敵に総攻撃を開始した。攻撃は翌日まで続き、ついに敵を海まで押し戻した。侵略軍は、当初6月15日に江南軍と合流する予定であった博多湾から約30キロの壱岐島に撤退したが、しかしそこには江南軍はいなかった。その後江南軍の先遣隊が到着し、同軍が当初の目標を壱岐島から博多湾の西約50キロにある鷹島と平戸島に変更したことを東路軍に伝えた。
(6月29日):数万の武士の軍勢が壱岐島に押し寄せ、急ごしらえの砦や船の東路軍を即座に攻撃した。激しい戦闘が連日連夜続き島を血で染めた。3日後、新たな武士団の援軍が島に上陸し、追い詰められた東路軍はついに島から撤退していった。しかし、彼らは母港に戻らず、平戸島の江南軍に合流するため西に向かった。
同じ頃、江南軍の主力艦隊は、侵略の足掛かりとするため平戸島と鷹島を襲撃した。これに対し、大宰府は再び九州各地から武士を動員し、鎌倉幕府もまた本土から約6万人の兵士を派遣した。
(7月27日): 大宰府の軍船が、鷹島湾内の江南軍船への攻撃を開始した(この戦闘の前に、大宰府軍は博多湾の志賀島に陣取っていた東路軍兵士を全滅させていた)。大宰府軍の度重なる奇襲攻撃は翌日の夜明けまでほぼ丸一日続き、東路軍と江南軍の指揮官たちは当初の大宰府占領計画を再考せざるを得なくなっていた。その代わりに、彼らは鷹島に急遽設置した砦を補強し、水夫たちは次の武士団の攻撃から身を守るために船を横一列に並べた。
(7月30日): 台風が鷹島の湾内に係留されていた多くの江南軍船を破壊し、多数の兵士と水夫が溺死した。それらの船は日本の軍船による次の攻撃を阻止するよう密集して係留されていたために巨大な波で互いに衝突し海中に没したのである。 (一方、平戸湾の船は、船同士が一定の距離を置いて適切に係留されていたため、それほど深刻な被害は受けなかった。)
武士団の激しい反撃と大量の艦艇の損失により、東路軍・江南軍の指揮官たちは侵攻計画を再考せざるを得なくなった。軍の一部は、度重なる戦闘と兵士間に蔓延していた疫病によりすでに戦闘能力を欠いていた。
「止まるまい。大宰府を占領するために突撃しよう!」
「確かに多くの兵士を失ったが、まだ10万人の百戦錬磨の兵士がいる。」
「撤退という選択肢はない!」
「食料は非常に限られているが、占領した場所でもっと奪取できる。」
作戦会議で一部の指揮官が戦闘継続を主張した。
しかし、大宰府の猛烈な反撃は各方面で彼らを押し戻し兵士たちの士気が低下させた上に、さらに台風の巨大な波が元軍の主力が陣取っていた鷹島湾の船のほとんどを押しつぶしていた。そして、
元王朝や高麗王朝からの即時の兵站支援の望みもなく、侵略軍はついに「撤退」という結論に達した。
「船から降りろ!」 軍の幹部らは無傷の船から下級兵士を引きずり下ろしてかわりに自分たちが乗り込み、慌てふためいて朝鮮半島へ戻って行った。そのようにしてかろうじて逃げ延びた者たちにとっては「それで終わり」だったが、鷹島に残された約10万人の兵士たちは悲惨な未来に直面した。 (対照的に、隣の平戸島にいた約 4,000 人の兵士は幸運であった。彼らは、船からすべての備蓄品、馬さえも捨てて兵士たちを乗せた思慮深い指揮官の指導により、無事に帰還することができた。)
身勝手な幹部に見捨てられた兵士たちは島の木材で船を造る計画を立てが、しかし時間がそれを許さなかった。大宰府の総攻撃が始まり、兵站支援がなかった元軍は最終的に全滅してしまった。(以前に日本との交流があった)南宋王朝の兵士の一部が捕虜として九州の領主達の手に残っただけであった。
こうして弘安の役は終わった。
3 度目の侵攻計画
この失敗を受け入れることができなかったクビライ・カァンは、日本侵攻に加わった諸国が極度に疲弊して多数の国内暴動が起こり、また隣国が元に対して敵対行動を起こしたにもかかわらず、2年後再度日本侵攻の軍を動員するよう命じた。しかし、これらの諸々の問題に対処するため、元は第三次日本侵攻のための兵士や水夫を募集する余裕がなくなっていた。
1294年(1月)クビライ・カァンが死去し、第三次侵攻計画は立ち消えとなった。